聖セバスティアヌス
キリスト教の聖人。人類史上、最も矢で射抜かれた人物。元々は古代ローマの親衛隊長と伝わる。当時のローマはまだキリスト教を公認していなかったため、セバスティアヌスは秘密裏に布教等のキリスト教的行為を行っていた。しかしやがてその事が皇帝に発覚。彼の行為は皇帝への裏切りと判断され、幾多の矢で射抜かれる刑に処される。そのエピソードからの連想か、射手、兵士、ペストなどの守護聖人とされる。
というわけで、キリスト教美術の文脈で、上半身裸になって矢に撃たれた男性が居れば、十中八九は聖セバスティアヌスです。
その痛々しくも劇的な死のさまは画家のインスピレーションを引き起こし、多くの絵画が遺されています(といっても、実は彼は矢で射抜かれた際には殉教しておらず、最終的な死因はその後の殴打だったりしますが)。
絵画のモチーフとしてのみならず純粋に聖人としても厚く崇敬された人物で、特に15~18世紀にかけては、これほど人気のあった聖人は珍しいほどだったそうです。今回ざっと探しただけでも写本画、絵画、彫刻その他諸々合わせて1800個は彼を描いた作品が見つかりました。今回未確認のものも含めると、きっとずっと多くの作品が生み出されていたことでしょう。
僕らが気づかぬその裏で、聖セバスティアヌスは延々と射抜かれ続けてきたのです。
さて上の図像で見てきたとおり、(資料的な裏付けはともかくとして)彼は絵画に描かれる際は決まって上半身を剥かれた下着姿で描かれています。上述の通りセバスティアヌスは古代の人間ですが、その絵画は描かれた時代の風俗が強く反映されています。それ故、それぞれの時代で描かれたセバスティアヌスの図像は、図らずとも中世の下着文化の一旦を示す資料たりうるわけです。
(ただし いわゆるルネサンス期に入ると、古代っぽさを重視してか、下着ではなく腰布が描かれるようになるのですが)
というわけで、聖セバスティアヌス様と共に、中世下着を見ていくことにしましょう。
※やたらと数が増えてしまった各画像は、クリックすると元サイズと出典を確認できます。引用するにあたっては可能な限り公式なソースや大本の出典を調べて記すよう心がけましたが、なにぶん数が多いため、図によってフォーマットが違ったり記述が不完全なところも多々ありますがご容赦下さい。
■おしながき
・中世パンツことブレー(Braies)の歴史
・ブレーとショース
・ブレーとショースの着用法
・パンツの色
・中世人とチラリズム
・社会の中のパンツ
・女性の下着
・まとめ
中世パンツことブレー(Braies)の歴史
冒頭の聖セバスティアヌスを眺めていると、その下着はいくつかのパターンがあるのがわかるかと思います。しかし中でも白い短パンかボクサーパンツ的なものを履いている図が最も多いと言えましょう。
これは、ブレー(Braies)と呼ばれるもので、中世に履かれた下着です。
このブレー。チョーサーの「カンタベリー物語」とかにその記載があったりと、テキストによる記述も存在するのですが、テキスト以上に写本の挿絵などの図像の中にその姿は刻まれています。というわけで、本稿では図像を中心に中世パンツの世界をご紹介していきます。
1: 古代から初期中世にかけて
元々、ブレーは古代ケルト・ゲルマン人が着用していたズボン(Braccae)がその起源だとされています。初期中世という時代は資料の数も少なく調査も難しいのですが、僅かな図像を見る限り、ズボン型のブレーは11世紀入っても存在していた事が伺えます。
2: 13、14世紀
そんなわけでブレーは中世に入ってもしばらくは踝付近まで至る長ズボン状だったのですが、時代が下るにつれ短くなっていき、また同時にズボンから下着へと変化していきます。
明確な起源を語るのは困難ですが、だいたい11世紀頃から膝丈程度の短いブレーが登場し始めたと言えそうです。そして下図に示すように、盛期中世には、ブレーはゆったりとした白い、膝丈かそれ以下の長さものとして定着するに至ります。
現代的なパンツに比べるとむしろ半ズボンに近いようにも思えますが、この頃には既に下着として扱われていたようです。清潔さを気にして毎日取り替えたというような記述も結構あるようで、このような記録からも下着として用いられたことが伺えるわけです。
このタイプのブレーは14世紀まで200年近くにわたって人々に愛用され、図像の中にもその痕跡を残しています。
3: 15世紀以降
一旦は安定したかのように見えたブレーの丈ですが、14世紀の中頃から末期にかけて再び中世の衣装は大きく変化し、それに合わせるかのようにブレーも形を変えていきます。
平たく言えば、衣服は短くぴっちりしたものになり、それに応じてブレーの丈も再び短くなります。
その過程でブレーの形状の種類も増え、15世紀くらいになると短パンからボクサーパンツ、ブリーフ型、果ては紐パン型のもの等が登場するに至ります。古代や13世紀ごろのものはともかく、これくらいになれば堂々とパンツと呼んで差し支えないでしょう。
このへんの事情にもやはり地域差や時代差、また併用などの事情もあるので一概に単純化は要注意です。ただ、大雑把に言えば、15世紀前半は丈が長めのボクサーパンツ型が主流で、15世紀も後半になるとより短いタイプが増えてくるといった具合のようです。
■ボクサーパンツ型
パンツの進化における中庸的な形態であるこのタイプは、15世紀を通じて広く見られます。
聖セバスティアヌスで言えば、上記のあたりがボクサーパンツと言えましょう。
■ブリーフ型
イタリア型と位置づけられることもある15世紀後半頃のスタイル。丈が短くなりピッチリとした形状になるにつれて、股間の膨らみが印象的になっていきます。
聖セバスティアヌスで言えば、上図のものはブリーフ型でしょうか。無論、後付の分類に過ぎないので、ピッタリとは当てはまらない例も多々ありますが。
■紐パン、ビキニ型
15世紀も後半になりパンツの丈も短さが限界に達すると、紐パンと言うべき形状のものが登場します。パンツの進化という意味でも審美的な意味でも、一つの到達点と言えましょう。
聖セバスティアヌスで言えば、上記のあたりが紐パン/ビキニ型に該当します。
ちなみに、貴重な現物も発見されています。
2008年、オーストリアはチロルのレングベルク城から明らかにパンツと思しき下着やその他の下着が発見されます。その後の調査の結果、2012年、確かにこれは15世紀のものだと判明し、日本でもちょっとしたニュースになりました。
見ての通り、形状的には紐パンに属します。そして15世紀という推定年代も図像資料が示してきた中世パンツ世界と合致しており、これまでの内容を補強する結果になったというわけです。
というわけで、聖セバスティアヌスと共に中世パンツことブレーの歴史を覗いてまいりました。
最後に、現代の再現品を使ってその変化をざざっとまとめると以下のようになります(一応、クリックは御注意の上で)
中世中期型ブレー。だいたい13世紀前後
中期型と後期型の間くらいのブレー。だいたい14世紀
中世後期型のブレー。15世紀
中世後期型のブレーその2。15世紀後半
かくして人類はパンツに辿り着いたわけですが、これが今日のパンツの先祖かというと、それはまた話が別だったりします。
その後ブレーは下火になり、歴史の彼方への忘却コースに。その後、今日的なパンツの直接の祖型としてズロースが登場するのは実に20世紀初頭のことだったりします。かくして長い間、中世パンツは無かったことにされたのでした。まぁ、中世にはよくある事です。
※近世以降は当方の守備範囲外である上、どうもこの辺、資料によって言ってることが違ったりするので、近世以降の事情はいまいち確答はできないのですが。
というわけで中世パンツの大枠を語ったわけですが、ここからは中世パンツに関わる細々としたトピックを紹介したいと思います。
ブレーとショース
上節でご紹介した中世パンツことブレーですが、彼には欠いては語ることの出来ない、相棒とも呼ぶべき衣服が存在しました。
それがショースあるいはホーズ(英:hose、 仏:chausses)と呼ばれる脚衣です。 中世の絵画でよく見かける、タイツみたいな奴です。本稿ではショースと呼称します。
本稿の主題たるパンツとは多少話がそれますが、当時のブレー(パンツ)とショース(タイツ)は切っても切れない関係にありますので、ここで一度紹介しておきましょう。
中世タイツことショース。元々はイベリア半島経由で8世紀頃に欧州に伝わったと言われます。当初のものは、靴下のように膝丈程度の長さであり、ふくらはぎ辺りを紐で縛って固定していました。
ところで「ブレー」の項目で述べた通り、後にパンツとなるブレーはまだ、当初(だいたい11世紀くらい)は丈の長いズボン状のものでした。このたっぷりとした丈長のブレーの裾を、靴下状のショースに落とし込んで留めるように着用したとされています。
しかし時が流れるにつれ、中世パンツ・ブレーが短くなるのとは真反対に、このショースはどんどん長くなっていきました。もちろんその進化にも時代差・地域差・階級差があるのですが、13世紀頃には総じて足全体を覆うようになり、ブレーの腰紐や胴服から吊るすようになります。
で、更に時代が進むと左右別々に履いていたショースは後部で合体するようになり、また股の部分にもコッドピースと呼ばれる股間当て/股袋が装着されていきます。16世紀末にはその股袋もショースと一体化し、今日のズボンの原型となります。
その後、足全体を覆っていたショースが、膝までの半ズボンと靴下・ストッキングとに分離する動きも生じています。一方で分離せずに元々の形状を保ったショースも残っており、そちらの方は現代のタイツの祖先となります。
多少駆け足気味になってしまいましたが、この辺の事情をやはり図と共に見ていきましょう。
というのがざっとしたショースの歴史になります。、そんなショースとブレーの関係をざざっと図にすると以下のようになります。
かつてはズボンだったブレーは短くなってパンツと化し、一方でかつては靴下だったショースは伸長していきズボンと化し、そこから再び靴下が分離する。
このようにブレーとショースは、時代に合わせてその形状と役割を変えつつも、常に互いを補完し合い続け今に至るという数奇な運命をたどってきたのです。泣けますね。
ブレーとショースの着用法
中世当時は現代と異なりゴムや伸縮性のある素材は乏しく、当然ズボンやパンツにもウエストバンドはありませんでした。そんなわけで中世人はブレーやショースがずり落ちないように気を使う必要があったのです。
まずブレーですが、大抵は上端部分に紐を通す箇所があり(coulisseと呼ぶとか)、ここに紐か細いベルトを通して固定していました。
また、初期の13世紀前後のブレーはゆったりとした形状だったことは前述しました。この頃のブレーには足元に切れ込みがあり、着用者は必要に応じてこれを縛ったり、あるいはたくし上げて腰部に結んだりすることができました。
一方でブレーの相棒たるショースですが、こちらはやはりブレーの腰部か、あるいは上着の裾に結びつけていました。
大雑把に言えば、中世中頃まではショースはブレーの腰紐などから吊り下げるスタイルが主流でした。やがて下着がコンパクトになってくると、今度は上衣(ダブレット)からショースを吊り下げる例が増えていきます。
ちなみにこの運用法は西欧の甲冑においても見られます。特に金属製の足鎧や腕鎧は普段着に比べて重量があるうえに激しく運動もするので、横からベルトで締めているだけで上から吊るさずにいると、あっと言う間にずり落ちてしまうんですね(経験者談)。
あるいは、袖にしろ足にしろ、吊り降ろして固定するという運用方法に日頃から親しんでいたからこそ、中世欧州人は重い腕鎧や足鎧を苦もなく自らのものにできた‥なんて想像をしてみるのも面白いかもしれません。
パンツの色
これまで見てきたように、中世パンツ・ブレーの色は基本的にシロです。純白の白です。
そもそも、下着とは外衣と素肌の間に立って両者を守るのがその役割なのですから、可能な限り清潔であり汚れのイメージからは遠いことが求められます。変に色を染めるのは下着の役割にそぐわないと申せましょう。これは近現代に至るまで保持され続けていた感覚でありまして、一般の下着に色が着くようになったのはごく最近のことだとされています。
しかし、中には例外もあるというわけか、図像の中には色がついた下着も幾らか描かれています。
サンプルが少ないので確答はできませんが、色付きのパンツを着用するのは、セバスティアヌスをはじめとする聖人が多いように見えます。ただし、黒いパンツに関しては上図のキリストを除けば俗人です。
また、今回は図像が見つかりませんでしたが、処刑人が黒いパンツで描かれる例もあるらしく、この辺の事情を総合すれば「青いパンツは聖なる象徴、黒いパンツは卑しき象徴」とされていたのかもしれません。
ただし、これらは図像内での表現の例であって、実際の中世人が色付きのパンツを穿いていたか否かはまた別の話でもあります。
前述のとおり、一般的には下着は白・無色が長期間にわたって基本とされていました。19世紀後半からシャツに色が付き始め、下着に色がつくのはさらに後世の話になるのですが、歴史的には下着に色が着く際に、無色と有色の中間形態として縞パンやパステルカラーの下着が誕生したとされています。
しかし中世の色付き下着にはそのような試行錯誤の跡は見られません。そういった事から想像するに、色付き下着は中世の世相の反映ではなく、あくまで図像における象徴的な表現法に過ぎないとも考えられるわけです。
中世人とチラリズム
抗ってこそのロック、秘してこそのエロス。
ただ単に露出するのではなく、本来隠しているものが晒される様にこそパンツのエロスが発揮されることは、古今を問わず言を待たないでしょう※1。そんなわけで中世人が残した絵画にも、数多くのチラッチラッな様が描かれています。
そこでここではパンチラを中心とする中世チラリズムの世界をご紹介したいと思います。
※1:要出典
チラリズム・パターン: 刑吏
中世パンチラ画像を収集していると、拷問官や処刑人など、いわゆる刑吏に該当する人々の割合が非常に多いことに気が付きます。
理由は色々考えられますが、考察は後にして、今は刑吏パンチラの数々を眺めることにいたしましょう。
チラリズム・パターン: 前かがみ
現代と同様、中世絵画にも、パンチラと密接に結び付けられたポーズがありました。それが前かがみのシチュエーションです。
チラリズム・パターン: ダブレット
ブレー歴史の項目などで何度か述べましたが、14世紀の中頃あたりから、中世人の衣装に大きな変化が現れました。
元々中世人はチュニックと呼ばれる丈の長い胴着を着用していました。これだと下着もしっかりと隠蔽されていたのですが、14世紀の中頃から、イタリアやフランスの都市部‥要するに最新流行に敏感な人々を中心に丈の短いダブレットと呼ばれる胴着が流行するようになります。
こうなると、パンツを隠すものはなにもありません。かくして人類は、前かがみにならずとも定常状態でパンツが見えるという新しい領域に突入することになったのです。
とは言え、無論、保守的な人から見れば、このような新しいファッションはふしだらなものでした。「こんな格好をしているから、天罰が下ってフランスはクレシーの戦いで負けたのだ」などと嘆くフランス人の声も記録には残っています。
その後も相変わらず丈の短いダブレットは使われ続けるのですが、その代わりにショースの方がこの事案に対応したのか、尻や股間をカバーするように変化してゆきます。この辺はショースの歴史で申し上げた通り。
かくして再びパンツは覆われ、世には慎みが蘇ったのでした。
チラリズム・パターン: 聖ロクス
本記事の冒頭では聖セバスティアヌスを紹介しましたが、チラリズムと言えばこの方を外すわけにはいきません。
チラ見せの聖人、聖ロクスです。
多くのペスト患者を治癒・看病し、自身もペストに罹患したにも関わらずこれを克服したことで知られる聖人で、ペストに対する守護聖人として多くの崇敬を集めていました。そんな彼が美術作品で描かれる際は、大腿部の傷を見せるポーズが定番となっています。
というわけで、ことチラリズムに関しては、やたらと図像が豊富な中世界隈なのでした。
社会の中のパンツ
中世においては、身分や性差に応じて然るべき服飾というものが細かく想定されていました。しかし下着の場合、材料はともかく形状については身分による違いはあまり無かったように見えます。
このように、あてなるもいやしきも等しくパンツを愛した一方で、「絵画にパンツが描かれるシチュエーション」には一定の傾向があることが見て取れます。
1: 農民、労働者
「チラリズム」の項目で見たとおり、中世の絵画でパンチラを提供しているのはその多くが農夫を中心とする肉体労働者です。
特に、「前かがみになった農夫」とパンチラの相性は人類史上でも類を見ないものです。
また、パンツが露出するか否かは別にしても、農民達がショースを膝までめくり下ろして生足を晒す図は多数見受けられます。これは、暑さ対策という実用上の都合も多分にあったことでしょう。
2: 偉い人
逆に王や貴族などが下着を見せる場合は、寝室であるとか浴室であるとか、プライベートなシチュエーションに限られています。特に、公の場所で下着や尻や太ももを見せることはほとんど無く、はしたない行為と認識されていたことが伺えます。
上図のような上層民と下層民が帯同するシチュエーションでも、足や尻を露出するのは明確に下層民に限られている様が伺えます。
この辺の描写具合から察するに、パンツ露出の描画は身分的、あるいは人間的な卑しさを暗示するものだと言えそうです。
3: 道化
上記の方向性のよりストレートな例として、道化を挙げることが出来ます。
上図はそれぞれ14世紀末、15世紀のタロットカードの「道化」の図ですが、いずれにせよパンツです。今回紹介した画像の中でも、かなりパンツです。
この辺からは、明確に「愚かなもの」を表現する蔑みの一環としてパンチラが描かれている様が見て取れます。
4: 刑吏
農夫・労働者と並んでパンツを提供する二大母体の一つが、チラリズムの項目で述べた刑吏たちです。
イエスを縄で連行する刑吏、洗礼者ヨハネを斬首する処刑人、その他の聖人に拷問を加える拷問官‥。彼らは「前かがみになる労働者」とは違って、本来は下着を晒す必然性はありません。が、しかしなんだかんだと言って下着が露出する格好で描かれがちです。
この傾向からは、彼らを卑しいものとして描こうとする描き手の意図が伺われます。
そもそも中世末から近世という時代は、刑吏そのものが著しく蔑まれた時代です。それゆえ絵の中の刑吏の姿には中世人の職業観が反映されている可能性は大いにありえます。
しかし、今回取り上げた刑吏たちは、いずれもキリスト教の聖人(もしくはイエス)を迫害する存在であるという点も見過ごすわけにはいきません。 少なくとも今回の調査では、キリスト教以外の俗な文脈での刑吏パンチラはただひとつも見つかっていません。
ですので、単純な職業観のみならず、迫害者たる刑吏をパンチラ姿で描くことによって、尊き聖人と卑しき迫害者の構図を明確にする意図があったとも想像できるのです。
5: 聖人とか
一方で、イエスキリストその人や、聖セバスティアヌスを中心とする聖人など、磔、拷問、受難に遭っている聖人や信徒たちもまたよく下着姿で描かれます。
しかし、彼らを迫害する刑吏達とは逆に、これらの絵画に聖人を蔑む意図は感じられません。と言いますか、聖人たちを蔑む中世絵画とか寡聞にして聞いたことがありません。
この辺の描き分けを考慮すれば、例え下着姿であったとしても、そもそも下着姿であるのが自然なシチュエーションであれば、それを描くのは決して忌避するものではない、と言うことができると思います。
結局のところ、下着姿であることそのものが重要というわけではなく、その場その場のTPOを守っている格好かどうかが問題だという事なのでしょう。これは多くの文化に当てはまることでもあります。
これらを総合すれば、中世におけるパンツや太ももは以下の様な位置付だったと思われます。
- 農民や肉体労働者は、実用上の問題もあり、結果的に生足やパンツを晒したりすることにそこまで抵抗は無かった
- しかし一方でそれらは「卑しい人間の所作」とも考えられており、大身の人間が、特に人前でするものではなかった
- それ故、絵画においては労働者、刑吏、道化などが、その卑しさを強調する意味であえて足やパンツを晒して描かれることもあった
- しかしこれまで見てきたように、立場のある人間でも、水泳時やダブレットの登場時など、シチュエーションや必要性、流行などの諸要素が許せば、パンツを晒すことがないわけでもなかった
という感じになりましょうか。
あえて晒すのが粋とされることもある一方で、立場ある人間が晒すものではなかった‥。という意味では、中世パンツの社会的位置付は本邦江戸期の「ふんどし」に近いといえるかもしれません。尤も、江戸期のふんどしは中世のブレーに比べればもうちょいオープンだったと思いますが。
女性の下着
さて、前置きはこれくらいにして、ここらで本題に入りましょう。つまり、中世と女性の下着についてです。
そもそも女性の下着は男性のそれ以上に図像史料が少なく、多くの色々な意見が見られる場でもあります。そこで多少整理して、三つの形態に分けて語っていきたいと思います
1: シュミーズ
まず、明らかに中世の女性が着用していたとわかるのが、シュミーズ(chemise。 shiftと呼ばれることも)です。
これは外衣の下に着る肌着で、元々は男女共に使用されていた(らしい)のですが、やがて中世女性の下着の定番となります。
その形状は、肩紐で吊り下げる筒型の現代的なものと、袖付きのものとが混在していました。時代的には袖付きのものが先行していたようですが、図像を見る限り、中世における普及具合は両者ともそれほど違いはなさそうです。
図を見ると、丈は長くゆったりとしており、しかして胴部分は紐かなにかで締められている形状をしていることがわかります。
またこれから見ていくように、特に寝室と風呂場の風景に多くのシュミーズの姿を認めることができます。
このように、中世の女性はシュミーズという、立派な下着/肌着を身につけていたと言えましょう。
2: ブラジャー
では次に、ブラジャーについて見ていきましょう。
「紐パン」の項目で言及した、レングベルク城から15世紀の下着が発見された件では、パンツの他にも何点かのブラジャーらしき下着が見つかっています。
いかがでしょうか。想像以上に現代的なブラジャー風の形状をしていることが見て取れるかと思います。
ただし、上の図のブラジャーをよくみると、胸部のみならず、横腹部分に垂れている布があることもわかるかと思います。
つまり、現在は布地の多くが破損してしまっているものの、元来は腹部まで覆っていた「ロングラインブラ」のような形状であっただろうと想定されています。
更に、胸部に着用する下着に関しては、中世の文字資料の中にも記述が何点か存在します。
曰く、胸を固定するために服の下に「袋」を取り付ける‥。曰く、「胸袋」の付いた服を着る‥。曰く、胸が重い場合は「帯布」で締める‥。等など。
そんなわけで、確かに中世の女性が「袋」やら「帯」やらを胸に取り付ける事はあったようです。
ただしその記述には多少の曖昧さが残り、実際のところに関しては多くの議論が交わされているというのが現状です。
まずその社会的位置付ですが、胸袋に関する言及がさほど否定的ではない事から、ブラジャー的な物の使用は社会的にも許容されていたと考えられます。しかしながらその証言は稀であり、図像も残っていません。それ故、ブラジャーの着用はそこまで頻繁ではなかったとも考えられます。
また用途ですが、袋にせよ帯にせよ、当時のブラジャーは基本的に胸を大きく見せるのではなく、逆に固定したり押さえつけたりするために使ったと想定されています。当時は胸の大きさはそこまでは重視されなかったんですね。無論個人差等は色々あったでしょうが。
そして形状です。前述のとおり、中世のブラジャーを描いた図像は、今回調査した限りでは存在しません。しかし、「胸袋付きの服」という表現であれば、思い当たるものがちらほら存在します。
シュミーズの仕立屋さんと、ボッカチオの「著名婦人伝」の独語版。いずれも15世紀のイラストです。単に描画の問題かもしれませんが、確かに胸部にカップが備えられているように見えなくもありません。
また、前項で紹介したシュミーズの中には、胴や胸周りがタイトな作りのものも多く、実はレングベルク城で見つかったブラジャーは、シュミーズの一部なのではと考える人もいるようです。
とは申せども、前述のとおりここは議論喧しい領域。安易に結論を急ぐのは控えて、研究の続報を待つことにいたしましょう。
3: パンツ
では最後に、パンツはどうか。結論を申せば、誠に遺憾ながら、極めて貧しいと言わざるを得ないのが現状です。
と言うのも、当時の女性がパンツを穿いていなかったことを示す図はそこそこあるのに、逆に当時の女性がパンツを穿いていたことを示す図像はほぼ皆無なのです。
上図は12~13世紀に巻き起こったアルビジョア十字軍の一幕で、カルカソンヌから追放されるカタリ派(アルビ派)達を描いた有名な図です。 が、この図では男性はブレーを着用している一方で女性は裸か、辛うじて布で腰元を隠している程度。下着と呼べるものは何ら身に着けていないことがわかります。 この描き分けを見るだけでも、「当時の女性はパンツを穿かないもの」とされていたことが伺えます。
また中世人の象徴世界でも、ズボンやパンツは男性を象徴するものと位置づけられています。
中世近世には「パンツ/ズボンをめぐる戦い」という主題があるのですが、これは家内での主導権をめぐる夫と妻の争いの意味合いで頻繁に戯画化されています。
また同様に、「ブレーを穿いた妻」といった表現は「かかあ天下」という意味で使われました。これは中世によくある倒置的な表現方法で、つまり本来は男性性と強く結びついているパンツだからこそ、そのパンツを穿いた女性という言葉が恐妻を指す比喩として機能するわけです。
いずれにせよ、中世人の精神世界ではパンツは極めて男性的な存在であると言うことが出来ましょう。
しかし、です。少し上では「女性がパンツを穿いていたことを示す図像はほぼ皆無」と述べました。ほぼ皆無ではありますが、皆無ではありません。
僅かな例外も存在します。
ブラジャーの項目で挙げたボッカチオの「著名婦人伝」。改めてよく見てみると、なんということでしょう。パンツを穿いた女性の姿が確認されているのです。
女性パンツは存在したんだ‥と言いたいところですが、ただし、手放しでこの図を迎え入れるわけにはいきません。
というのも、あまり調べきれてはいないのですが、描かれている該当の人物「アッシリアの王妃セミラミス」は、男物の服を来ていたとかいう微妙な伝説もあるらしいのです。というわけでこの図をそのまま中世女性がパンツを履いた根拠と受け取るのは難しかったりします。
そこで差し向けられる第二の矢が、これまで何度か登場してきたイタリアはサルッツォのマンタ城のフレスコ画、「若返りの泉」。
前述の通り、泉の中の女性は裸であり、泉のそばの女性たちはシュミーズを着用しています。
しかし、その中でも左下の女性は、シュミーズの中にパンツを穿いているという説が海外の論者達の間でまことしやかに囁かれているのです。
該当部分の画像を弄ったり弄らなかったりしつつ上げてみましたが如何でしょうか。
こうしてみると、確かに腰にパンツの上端と思しき横線めいたものが見えたり、あるいは腰付近のエリアは色が肌色よりも白に近かったりと、パンツを穿いていると表現するにやぶさかではないような描画になっていると言えるかと存じます。
また、文書資料の中にも女性パンツを示唆する記録があります。例えば14世紀半ばのパリで起きた強姦事件の記録には、「女性の下着を下げおろす」‥といった記述が登場しています。
他にも当時の文学においても、(直接的な描写ではないものの)当時の女性がパンツを履くのは「あり得る事」だったのではないかと推察できるお話も確認されています。
とまあ、海外の史料を調べても見つかるのはこのように断片的かつ微妙な根拠ばかりなのですが、これらの話を総合するに、中世の女性がパンツを履くことは「稀ではあったが、全くないわけではない」と結論付けるのが妥当かと思われます。
余談: もう一つのパンツ
‥と言うのが中世における女性用パンツに関する概説になります。
しかし、これまでの言説に反して、割と女性も下着を着ていたんじゃなかろうかと言われる地域も存在します。それが、イタリアとスペイン。
なんでも、このサイトの記述によれば、その辺の事情を語った書物も何冊かあるそうです。 いずれも三次資料でありその信憑性は疑ってかかるべきではあるのですが、それらを統合すれば、以下の様なシナリオになります。
- 北西アメリカはモロッコのムーア人(ベルベル人)が膝丈のドロワーズを着用していた
- スペインやポルトガルの貴婦人はやはり膝丈くらいの、多くの装飾が施されたドロワーズを持っていた
- フェラーラ公妃であるところのルクレツィア・ボルジアが旅行先のスペインからイタリアにこれを持ち込んだ
- それからフランス、そしてイングランド方面に広がった
この種の下着のことを、本稿では区別のためにドロワーズと呼ぶことにしましょう。 実はこのドロワーズに関しては、より確かな根拠も存在します。
16世紀末のヴェネツィアの遊女。彼女らが件のドロワーズを穿いていたという記録が複数あり、素晴らしいことに絵画も遺されているのです。
その例がこちら。
如何でしょう。想像したものとちょっと違うかもしれませんが、少なくとも「膝丈のドロワーズ」という記述にも合致しています。以前の記事で解説したヴェネツィア遊女御用達の高下駄「チョピン」を着用している点もニクいですね。
また同じころの記述によれば、遊女だけではなく修道女や身分のある人間もこの手のドロワーズを着用しており、十分立派な下着として認識されていたことが伺えます。
というわけで、本項目をまとめるとこのような感じになります。
- これまで述べてきた「ブレー」とは別に、ドロワーズとでも言うべき別の女性用下着の系譜が中世には存在していた
- イタリアにおいてはヴェネツィアの遊女が着用したことで知られるが、貴婦人達にも(少なくともある程度は)受け入れられていた
- 多少の曖昧さは残るが、おそらくそれは北アフリカ→スペイン→イタリア→フランス→イングランドと伝わっていったと思われる
- ただし、これをパンツと呼ぶべきかは限りなく微妙
近くて遠い。それが中世パンツの世界と申せましょう。
余談その2: 生理
これまでの話とはまた別の根拠で、中世の女性もパンツを着用したのではないかと考える説が存在します。その根拠とはつまり生理。
今日の生理用ナプキンと同様の目的でパンツを穿いていたというのは、確かにありえる話ではあると思います。日本でも、江戸期の女性は生理対策としてふんどしを着用していたと聞きます。
しかしながら、当時の資料の中にはその辺のことを裏付けるような記述が一切ないため、現状では可能性の域を出ない説であるようです。おそらくボロ布を適当に工面して使っていたのでは、と主張する人もいます。
余談その3: カトリーヌ
これまでパンツについて色々述べましたが、それらとはまた別の系譜で女性のパンツを主張する言説も存在します。
Leloir著「Histoire du Costume」によればフランスにパンツを導入したのは、1533年に後のフランス王アンリ2世に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスだとされています。 このカトリーヌ説によれば、彼女がイタリアから持ち込んだ乗馬法では足や局部が顕になるため、それを防ぐために当時存在した男性用下着を女性も身につけるようになったとかなんとか。
はい、あのカトリーヌ・ド・メディシスです。以前の記事でも取り上げました、あの、「あの辺の時代にフランスに伝わったものはなんでも彼女に帰せられる」ことで有名なカトリーヌ・ド・メディシスさんです。
そうでなくても上述のカトリーヌ説は時代的なものも含めて、周辺の下着事情との整合性が取れない点が多く、信憑性は怪しいと言わざるを得ません。そもそも件の書物は1935年のものであり十分なソースに基づくかどうかも怪しく、現状では伝説扱いとするのが無難かと思われます。
まとめ
では恒例のまとめです。
- 中世においてはブレーと呼ばれる下着が着用された
- このブレーは古代のゲルマン人らが穿いたズボンに由来するが、徐々に短くなっていき、中世中期以降は下着として定着していた
- 特に15世紀以降になると、現代的なパンツと大差ない形状になり、中には紐パンやビキニ状のものも登場する
- 素材は亜麻や羊毛が多く、また色は白が主流だが、全てがそうであったわけではない可能性もある
- 露出に関するノリは江戸期の「ふんどし」に近く、大身の人間が人前で晒すようなものではなかったが、一方で肉体労働者階級であればさほど忌避するものでもなかった
- いずれにせよ着用していたのはもっぱら男性で、原則として女性はパンツを履かなかった。仮にあったとしても稀だっただろう
- 一方で上述のブレーとは別に、ドロワーズとでも呼ぶべき膝丈の下着が、中世末期頃から北アフリカ・スペイン経由で欧州にも伝わっていた
- また女性はシュミーズを下着として着用していた。ブラジャーめいた遺物も遺されているが、その形状に関しては議論も多い
結論を申し上げますと、中世の女性は原則としてパンツを履きませんでした。 一方で野郎のパンチラは割とそこかしこに存在しました。
以上、中世ファンタジーモノの作者さんは是非とも参考にしてください。私はしませんが。
主な参考資料(例によって細かなものは割愛)
- 完訳カンタベリー物語/チョーサー 桝井 迪夫訳
- 実用版 下着おもしろ雑学事典/ワコール宣伝部
- 世界ファッションの歴史 下着/ヘレン・レイノルズ 徳井 淑子
- 総合服飾史辞典/丹野 郁編
- 中世兵士の服装/ゲーリー・エンブルトン 濱崎 享訳
- 服飾辞典/石山 彰編
- 服装大百科事典(上)/服装文化協会編
- http://designerhistory.blogspot.jp/2013_06_01_archive.html
- http://evashistoricalcostumes.blogspot.jp/2015/08/the-sexy-male-tanga-in-16th-century.html
- http://evil-fionn.livejournal.com/245987.html
- http://opusincertumhispanicus.blogspot.jp/2012/03/retales-que-nos-vistieron-las-bragas.html
- http://realmofvenus.renaissanceitaly.net/library/drawers.htm
- http://www.greydragon.org/library/underwear1.html
- http://www.historyextra.com/lingerie
- http://www.news.com.au/world/year-old-bras-uncovered-in-austrian-castle/story-fndir2ev-1226429581041
- https://bokeofthewardrobe.wordpress.com/2016/05/16/braies-part-1-introduction/
- https://bokeofthewardrobe.wordpress.com/2016/05/20/a-brief-history-changing-shape/
- https://bokeofthewardrobe.wordpress.com/2016/06/01/braies-part-3-womens-braies/
- https://en.wikipedia.org/wiki/Undergarment
- https://en.wikipedia.org/wiki/English_medieval_clothing
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC_(%E8%A1%A3%E6%9C%8D)
- https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B9
- https://vulgarcrowd.wordpress.com/2015/08/20/why-the-langberg-finds-are-not-knickers/
おまけ。 ヒストリカルな下着の干し方。保存はしたけど使い道の無かった画像の供養とも云う。
大変興味深い記事でした。女性のパンツ着用に関してですが、(当該の資料名を忘れてしまい大変申し訳ないのですが)私が昔に読んだ中世研究本によると、中世ヨーロッパでは女性がズボン状のもの(筒状の布を二つ縫い合わせたもの)を履くのが、キリスト教上の理由(これも単なる男装以上にそれなりの理屈付けがあったかと思うのですが、忘れてしまいました)で大変に忌避されていたそうです。女性が(生理等の都合で)便利なはずの「パンツ」を履けなかったのはそれが理由で、パンツの形状も「ズボン」の一種と見なされて、女性が履くのはNGということでした。逆に言えば「パンツ的な形状」でなければOKだったようで、例えば腰布的な下着であったり生理用の布は大丈夫だったそうです。ドロワーズについては、どれも股の部分が割れていたりあるいはヒモで分解できる形状になっており、「この形状ならズボン(パンツ)じゃないからOK」という抜け道だそうです。該当資料が明らかではなく記憶のみの話で恐縮ですが、参考になれば。
貴重な情報ありがあとうございます。かなり突っ込んだ内容の御本のようですね。
ざざっと調べてみただけなので詳細は不明ですが、どうも聖書にその辺に関わる記述があるみたいですね。(ただ、教会の建前と現実には齟齬がつきものなので、どこまで額面通りに受け止めるべきかは中々悩ましいところですが。)ともあれ、本稿をいい具合に補足してくれそうな情報なので、機会があれば教示頂いた内容について調べてみたいと思います。
あと、もし資料の名前を思い出されたらいつでもお待ちしております。
グレゴリウス様 初めまして
主とsamura様の有益な記事に感謝です。パンツ、ズボン、靴下の関係面白い。
「産業革命と下着の発展」的なものを調べていてのご縁でお伺いしました。
パンツを含め、男性衣料がゆったりスカート的なものからピチピチタイツ状態になった経緯については、辻元よしふみ様著「軍服の歴史5000年」に概要が記されています。(御既知であればご容赦下さい)
僕のテリトリーの近代紳士服から今回の記事に絡めると”Braies”が英のズボン吊りの”braces”の語源になったと妄想してます。(Suspendersと同義でhoseを吊るすパーツとして)
そんな訳で、もしベルトについての知識をお持ちでしたら是非とも公開をお願い致します。
この話が出来、嬉しくて長文すみません。
ご活躍を期待致します。有難う御座いました。
Pingback: 【ネタ】あの鯖、パンツ丸出しで戦ってた模様wwwwww⇒これは男を惑わす魔女ですわ | Fateちゃんねる
まじめに知りたくて開いたら…溢れるパンツ感、迸るパンツ感…! www
全く別の意味で、たいへん楽しませて頂きました!
ありがとうございます!
とても面白い内容でした
文献は忘れましたが(ネットのまとめだったかも)
・国内外で主にこし巻きがメインだった
スカートや着物がメインであり、下腹部と服が触れるのを避けるため
・生理の時はふんどし状のモノを着用
間には布切れを入れていた
・海外では馬術が女性に広まったころに広まった
これはズボンの着用で直接触れる機会が増えたため
・日本の場合は大正?まで未着
大正?のホテル火災以後広まった
下着を着けない女性の被害がひどかったため